賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、1900年〈明治33年〉1月27日 - 1978年〈昭和53年〉1月3日)、のちに賀陽 恒憲(かや つねのり)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。神宮祭主賀陽宮邦憲王の第1王子。賀陽宮第2代当主。官位は陸軍大学校長陸軍中将大勲位功三級に昇る。妃は九条道実公爵の五女敏子。戦後皇籍離脱した。香淳皇后(昭和天皇后)の従兄にあたる。

概要

王は軍人として陸軍中将に昇り東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めた。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、賀陽宮邸が全焼。一家で宮城に避難し、表拝謁ノ間に仮宿する。天皇・皇后から罹災の御見舞金として1万円を賜る。翌3月11日、昭和天皇に宮邸全焼に伴う御見舞への御礼を行うとともに、対話の通じて無条件降伏と戦争責任者の処罰以外は戦争終結の条件として考えられ得ると述べている。

終戦が決まると皇族の臣籍降下を主張した。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下し、その3日後には区役所にて住民手続きし賀陽 恒憲かや つねのりとなる。臣籍降下直後に公職追放となる(1952年(昭和27年)解除)。「平民的な宮様」として国民に慕われ、生活ぶりは質素であった。他方「野球の宮様」とも称され、1934年(昭和9年)にはアメリカ・ニューヨーク、ヤンキー・スタジアムで試合を観戦した。終戦後、御歌所長を務めた後、日清生命社友会会長などの公職を歴任した。 王の邸宅はかつて閑院宮載仁親王や久邇宮邦彦王が居住していたが、後に千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。

官歴

  • 1943年(昭和18年)3月1日 – 任 陸軍中将

人物

乗馬が好きで、大正時代にできた日本初の乗馬クラブである神戸乗馬倶楽部主催の「全国乗馬大会」の第2回から4回までの総裁を務めた。

血縁

  • 父:賀陽宮邦憲王
  • 母:邦憲王妃好子
  • 兄弟:由紀子女王 - 恒憲王 - 佐紀子女王
  • 妻:九条敏子(九条道実の五女)
  • 子:
    • 第1王子:邦寿王(1922年 - 1986年) - 陸士55期。賀陽政治経済研究所長。
    • 第1王女:美智子女王(1923年 - 2009年) - 徳大寺斉定に降嫁。後に離婚。
    • 第2王子:治憲王(1926年 - 2011年) - 海兵75期。外務省国連局長、在イスラエル・デンマーク・ブラジル大使、外務省研修所長、交流協会顧問。
    • 第3王子:章憲王(1929年 - 1994年)- 第一勧業銀行に勤務。
    • 第4王子:文憲王(1931年 - 2021年) - 髙島屋に勤務。
    • 第5王子:宗憲王(1935年 - 2017年) - 味の素に勤務、大日本居合道連盟会長。
    • 第6王子:健憲王(1942年 - 2017年) - 日本交通公社に勤務。

第3王子章憲王の子である賀陽正憲は第126代天皇徳仁の学友であり、民間企業勤務の後国家公務員となった。

略年表

栄典

  • 1920年(大正9年)12月25日 - 勲一等旭日桐花大綬章
  • 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章
  • 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章

脚注

外部リンク

  • 『親王・諸王略傳』恒 [恒憲] - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)
  • 賀陽宮家御家族の写真アルバム

賀陽宮恒憲王

解明!賀陽宮家の家系図と皇室との血縁関係

沿革|学校法人皇學館

賀陽宮恒憲王殿下と佐紀子女王殿下 T.I.H.Prince Tsunenori and Princess Sakiko Kayanomiya

賀陽宮恒憲王献上 同型 横江嘉純 作 ブロンズ 友の詩 男性像 共箱 彫刻 日展作家 富山県(西洋彫刻)|売買されたオークション情報